韓国語を勉強し始めて間もないころ、詩人・茨木のり子の「ハングルへの旅」という本に出会った。
憂いを忘れる里という美しい響きを持つソウル郊外の「忘憂里」が紹介され、そこの共同墓地に浅川巧という日本人が眠っているということをその本で知った。
その時からずいぶん時間が経ってしまったが今週、忘憂里の共同墓地に行ってきた。
忘憂駅前でバスを乗り継いで「東部第一病院」で下車すると、忘憂里公園は近い。共同墓地は忘憂里公園と一体となっている。
公園墓地管理事務所で教えてもらった浅川巧の墓は、入口から30分ほど歩いたところにある。
かの地の緑化に心血を注ぎ、朝鮮の陶芸をこよなく愛した日本人の墓は、韓国式の素朴なものだった。墓の前には、「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」とハングルで刻まれた碑がある。
大邱の農業用貯水池・寿城池を築造した水崎林太郎同様、浅川巧が朝鮮(韓国)のために尽くした功績は大きい。韓国の土となったいまもその輝きに一点のかげりもない。
忘憂山の麓に造られた共同墓地は広大で、独立運動家、小説家、詩人、画家など多くの韓国人が埋葬されている。少ないが日本人の墓や日本人風の名前の墓もある。
彼らの理想や作品を称える碑石を読みながら、散策路をゆっくり1周すると優に1時間半はかかる。
散歩を楽しむ人や登山帰りの人たちが意外と多く、途中には道峰山、北漢山、中浪区の市街地などを望める展望台もある。
帰りにこの散策路をひと回りしてきた。早春の風が冷たいが、厳粛な雰囲気の中を歩くのは心身ともに安らぎのひと時となる。
歩きながら、かつてこの地を訪れた閨秀詩人のことを想った。自分を一人残して旅立ってしまった夫の面影を浅川巧に重ね、こみ上げてくる思いを亡き夫に伝えていたのだろうか。それがあの文章になり、「急がなくては」という詩になったのかもしれないと、そんな情緒的なことを想像してみた。
浅川巧については、下記wikipediaを。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%B7%9D%E5%B7%A7